ぼくがうつ病を発病するまでの話 11(最終回)

2009年6月 早朝
ぼくはベッドの中で泣いていました。

 

そして、しばらくして起き上り、
そのまま下を向いて座っていました。

もう動けませんでした。

 

奥さんがそれを見て、
『今日は会社を休んで』と言いました。

・・・・・

 

それから会社には、体調が悪いので休むことを伝え、
その日に打ち合わせする予定の取引き先にも
謝りの電話をいれました。

・・・・・

 

そして、奥さんに言いました。

 

「ごめん、もう死にたい。」

・・・・・

 

奥さんは、『病院に行こう』と言いました。

・・・・・

 

ぼくは、何も答えませんでした。

ただ、お医者さんなら
助けてくれるかもしれいないという
淡い期待もありました。

・・・・

 

奥さんは、ぼくの様子があきらかにおかしいことから
うつ病ではないかと疑っていたようです。
あとでわかったことですが、僕の実家の
両親にも相談していました。

 

きっと不安だったのだと思います。

・・・・

 

奥さんは、近くの精神科も調べてくれていたので、
すぐにそこに電話をして、
今日は休診日じゃないかを確認してくれました。

そして、『そうなんですか・・・』といって
電話切りました。

理由を尋ねると、診察には1カ月前から
事前に予約が必要だから、今日の診察は
できないとのことでした。

・・・・・

 

次に電話した病院も同じ理由で
今日の診察はできないとのことでした。

・・・・・

 

多くの精神科は完全予約制で、
受診のためには、1カ月くらい前から
予約しておくの必要があるのです。

そのとき初めて知りました。

・・・・・

 

もう死ぬしかない、そう思いました。

・・・・・

 

そして、3件目の病院でも同じ理由で
こたわられました。

ただ、ここの病院は、当日診察が可能な
別の病院があるからと親切にその病院を
教えてくれました。

・・・・

 

教えていただいたのは、心療内科でした。

となりの市にある病院でしたが、
奥さんが運転する車で向かいました。

そして、病院に着きました。

・・・・・

 

ぼくと同じような顔でうつむいている方が
目にはいりました。

まるで自分を見ているようでした。

・・・・

 

診察前にはアンケートを書きました。
内容ですが、症状はいつから出たか、、
仕事の内容、病歴などです。

そして、先生の診察を受けました。
内容は面談のみです。

そして、診断結果を先生が言われました。

 

『うつ病』でした。


 

そのときの気持ちですが、
ほっとしたというのが本音です。

自分がこのような状態になったのは、
病気のせいであるとわかったからです。

それに、必ず治ると言われたからです。

そして、もう会社は休職してくださいと
言われました。

・・・・

 

2009年6月 ぼくはうつ病を発病し、
うつ病患者となりました。

ここまでが、ぼくがうつ病と診断されるまでの
経緯です。

 

うつ病を発症した原因は、ハードワークと上司からの
プレッシャーでした。

・・・・・

 

柏崎さんがうつ病を再発して休職したとき、
主任の香川さんはぼくにこんなお話をしてくれました。

 

人は皆それぞれ、心なかに容器を持っている。
そして、苦痛を受けるたびにその容器にストレスが
たまっていく。

容器がいっぱいになるまでに、ストレスの源を
解消できれば、また容器は空の状態になるが
それができなければ、容器にはストレスがたまりつづける。

そして、その容器にストレスが入りきらなくなったとき、
容器からストレスがあふれ出したとき人はうつ病になる。

その容器の大きさは、人によってバラバラである。
おちょこの人もいれば、ドラム缶の人もいる。

・・・・・

 

ぼくの容器の大きさはどれくらいだったのかは、
わかりません。ただストレスがたまりつづけていたのは
たしかです。

うつ病は時間をかけて、徐々に症状が出てくる病気です。
それはこのように考えれば納得できます。

ぼくも結局、ストレスがたまり続けた結果うつ病になりました。

ただ、自分がうつ病になるなんて考えもしませんでした。

・・・・・

 

これを読んでるあなたも、自分はうつ病とは関係ないとは
思っているかもしれませんが、そんなことはありません。

うつ病は誰でもなる可能性がある病気です。

ですから、あなたやあなたの大切な人の様子が
以前と比べておかしいと感じたら、
すぐに病院へ行ってください。

 

病院へ行くことを怖がらないでください、
はずかしがらないでください。

 

うつ病は自殺の危険がある病気です。

 

あなたが死んでからでは、取り返しがつかないのです。

 

あなたは、この世に必要な人間です。

 

それにあなたは、もう十分がんばりました。

 

もうこれ以上、がんばらないでください。

 

ゆっくり休んでください。

 

そしてあなたの心の容器からストレスがなくなったら
また復帰すればいいんです。

 

容器が空になるまでは、休むことがあなたの仕事です。

 

だから、今はゆっくり休みましょう。

・・・・・

 

機会があれば、休職中のぼくのお話もまた書かせていただきます。

 

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

 

ここで書いたぼくのうつ病発病に至るまでのお話が
あなたの役にたてば幸いです。

あなたの心が安らかになる日が来ることを願ってます。

 

善吉

※この闘病記に登場する人物の名前は
仮名であり、実在する人物ではありません。

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ぼくがうつ病を発病するまでの話 10

2009年3月 ぼくは新しいプロジェクトに
携わることになりました。

 

ただ、人手があきらかに足りませんでした。

いくら徹夜しても、
いくらサービス残業をしても、あきらかに
まかなえないほどの仕事量でした。

そこで、苦肉の策が実施されました。

その内容は他の部署から、
人員を回してもらうというものです。

・・・・・
 

ぼくの下にも、他の部から
来た方が2名つくことになりました。

ただ、この人員を回してもらうのにも、
何もできない人が来ては、0から指導しなくてはいけません。

とてもじゃないけど、納期を考えると
指導をしている余裕はありませんでした。

 

そこで、人員を回してもらう際に、
事前にこういう実験ができる人、
こういうソフトが使えて
図面が書ける人という条件を出していました。

・・・・・

 

しかし、実際にぼくの下についてくれた方は、
その条件をどれも満たさない方でした。

杉田課長には、もちろんその旨を伝えましたが、
おれは相手の部署にきちんと伝えたの
1点ばりで、対応はしてくれませんでした。

結局、その2人には実験の仕方、
図面の書き方などを指導するところから
スタートです。

・・・・・
 

しかし、その方達は定時になると
帰ってしまいます。

サービス残業などしてくれませんでした。

サービス残業の強要なんて、
ぼくにはできませんでした。

サービス残業は法律に違反する行為ですから当たり前です。

・・・・・

 

結局、ぼくが3人分の仕事をする形になりました。

もう限界を超えていました。

・・・・

 

笑うこともなくなりました。

 

家にいても、会社にいても、ずっと下を向いていました。

 

酒を飲まなくては寝れなくなりました。

 

ウィスキーのボトルを1日1本あけていました。

 

朝の4時に目が覚めるのに、ベッドから出られませんでした。

 

ベッドの中で泣いていました。

 

起き上っても、意識がもうろうとしていました。

 

何度も車に飛び込もうとしました。

 

とにかくラクになりたかったです。

 

本当に死にたかったです。

・・・・・

 

ぼくのうつ病発病まであと1ヶ月

※この闘病記に登場する人物の名前は
仮名であり、実在する人物ではありません。

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ぼくがうつ病を発病するまでの話 9

2008年10月 ぼくは結婚しました。

 

大学時代から付き合っていた彼女です。

彼女のことが大好きでした。
もちろん今でもです。

彼女を幸せにしたい、そう本気で思いました。

・・・・

 

新婚旅行にも行きました。

はじめての有休でした。

それまで、ぼくは有給を1度も
使ったことがありませんでした。

理由は、ぼくの課では使える
空気ではなかったからです。

 

他の課に配属された同期は、
上司から有給を消化しなさいと命令があると
言っていましたが、ぼくの課では考えられませんでした。

ですから、ここぞとばかりに
有給を使いました。

 

新婚旅行は楽しかったです。
本当に幸せでした。

ただ、楽しい時間はすぎるのが早いです。

・・・・

 

会社に戻ってきてからは、またあの生活がはじまります。

その頃からです、リーマンショックの影響が出だしたのは。

コスト削減で、派遣社員の方は減りました。

残業代は1円も出なくなりました。

人も時間も何もかも足りませんでした。

その中で納期だけは守らなくてはいけません。

杉田課長からの罵声は毎日続きました。

もう、どうしようもない状態でした。

・・・・

 

年も明けて2009年になりました。

 

この頃から、ぼくは死にたいと思うようになりました。

・・・・

 

ぼくのうつ病発病まであと5ヶ月

※この闘病記に登場する人物の名前は
仮名であり、実在する人物ではありません。

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ぼくがうつ病を発病するまでの話 8

2007年3月 柏崎さんのうつ病が再発しました。

 

柏崎さんがうつ病で休職のため、
出社することができなくなりました。

そのため、これまでぼくと柏崎さんと
2人でやっていた業務をぼく1人でやることになりました。

ぼくはそのとき、入社1年目でした。

・・・・・

 

今までの業務もしんどい面もありましたが、
それからは、それまでの比にならないくらい
しんどかったです。

設計、部品業者との打ち合わせ、試作品の作成、
評価、発表資料作り、量産準備・・・・

次から次へやることがでてきます。

そして杉田課長には、毎日罵声を浴びせられます。

もう、体力的にも、精神的にも限界でした。

 

研究室時代も、それなりに厳しかったですが、
厳しさの質が違いました。

この職場での成果には、自社、関連会社全員の
生活がかかってきます。
もちろん、お客さまにも迷惑がかかります。

そのプレッシャーの中でのハードワークは
本当につらいかったです。

 

このときくらいから、不眠の症状が出始めました。

仕事中に眉間にしわをよせて、
頭を抱えることが、増えました。

残業時間は150時間を超えました。
もちろん無償です。

ラクになりたい、どうしたらラクになれるのかを
考えるようになりました。

ぼくの体重は58Kgになっていました
配属されてから、10kgやせました。

・・・・・

 

2008年1月なんとか製品は完成し、流動開始となりました。

ただ、この業務ではいろいろなことがあり、
素直に喜ぶことができませんでした。

・・・・・

 

もうこの頃には、うつ病の兆候が出ていたのだと思います。

・・・・・

 

ぼくのうつ病発病まであと1年ヶ5月

※この闘病記に登場する人物の名前は
仮名であり、実在する人物ではありません。

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ぼくがうつ病を発病するまでの話 7

2007年3月 柏崎さんが会社を無断欠勤しました。

 

そのとき課内が、とても騒がしくなりました。

そして杉田課長の号令ですぐに、
香川主任が柏崎さんの家に迎いました。

柏崎さんの安否の確認のためです。
自殺している可能性もあるからです。

また柏崎さんは、実家を離れて1人暮らしでしたので、
実家へも帰省していないか確認の電話をいれました。
実家には、帰られていませんでした。

そして、杉田課長がぼくを呼びつけます。

『なんで、様子がおかしいことに気づかないんだ!!!』

『一緒に仕事してたら、わかるだろっ!!!』

『お前が負担をかけてたんじゃないのか!!!』

・・・・・
 

正直、様子がおかしいことなんて、
ぼくは気づきませんでした。

 

ぼくが、そんなに負担になってるなんて
わかりませんでした。

 

一緒に協力して、がんばっている気になっていました。

 

本当にぼくが負担になってたんでしょうか?

 

あなたが毎日、罵声を浴びせ続け、
プレッシャーをかけていたことは、
無関係なんですか?

ただ、そのときぼくは気持ちが動転していました。

 

「気づきませんでした。本当にすみませんでした。」

 

とにかく謝りました。
どうしようもないことをしでかしたかもしれない。
そう思いました。

 

ただ、様子がおかしいなんて、本当にわかりませんでした。
もともと柏崎さんが、うつ病だったことも知らなかったので、
アンテナをはっていませんでした。

 

『柏崎が死んだら、お前どうする気だ!!』

 

今まで聞いたことのないような、大きな声でした。

 

だけど、あなたには何の責任もないんですか?

 

柏崎さんが過去にうつ病になったことを知っていたなら
上司のあなたはケアしてあげられたんじゃないんですか?

 

なぜ、そんなに大きな声でさも柏崎さんがこうなったのは、
ぼくのせいだと言いきれるんですか?

 

そんなに、自分が責任を負いたくないんですか?

 

そんなに、自分の評価を下げたくないんですか?・・・・・

 

ただその時は、もうどうしていいのか、わかりませんでした。

 

(死んだら、しんだら、シンダラ・・・・)

もう頭がパニックになっていました。

・・・・・

 

幸い、柏崎さんは無事に生きていました。

ただ、うつ病を再発していました。

そして、その日から柏崎さんは会社を休職しました。

・・・・・

 

そのあとで、香川主任と2人で話をして、
これまでの柏崎さんのこと、この課の
ことについて教えてもらいました。

まとめると次のようなことです。

  • 柏崎さんは過去にうつ病で2度休職している。
  • 柏崎さんの休職は今回で3回目である。
  • この課では、柏崎さん以外にもうつ病患者はいた。
  • その方は2度の休職の後、退社した。
  • 杉田課長が下で働く者は、うつ病になる者が多い。

全く知りませんでした。

おそらく、工場実習の際に、
『杉田課長の下で働くのはかわいそう』と言われたことは、
最後の内容が原因だと思います。

・・・・・

 

ただ、柏崎さんの命が無事で本当に良かったです。

・・・・・

 

ぼくのうつ病発病まで、あと2年3カ月

※この闘病記に登場する人物の名前は
仮名であり、実在する人物ではありません。

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ぼくがうつ病を発病するまでの話 6

2007年2月  ぼくと柏崎さんは
新たな製品の開発に取り組むことになりました。

 

今回の開発は前回の製品と比べて、
会社にとっても重要なものであり、
大きな売上を期待している製品です。
いわゆるメシの種になるモノです。

ただ、設計を担当はぼくと柏崎さんだけでした。

・・・・・

 

ぼくたちの課では、新しい製品を設計することも仕事ですが、
流動中の製品に不具合がでたときの対応も仕事でした。

製品の不具合というものは、どれだけ事前評価をしても
発生する可能性をゼロにすることはできません。

そして、製品不具合は重なることが多いのです。

そのときも、不具合が重なり、それに人数を割かなければ
いけなかったので、どうしても設計に人数を回すことができませんでした。

ですから、設計は2人だけでした。
そして、そのときも毎日杉田課長から
罵声をあびせられました。

・・・・・

 

そして、設計を開始して1ヶ月後の
2007年3月事件は起こります。

それは、月曜日の朝のことでした。

・・・・

 

柏崎さんが会社に来ないのです。

時刻は10時を過ぎてました。

家に電話をかけても、携帯にかけても出ませんでした。

課内が騒ぎだしました。

そして、杉田課長が大声で叫びました。

『おい、またかー!』

 

そして杉田課長が大森部長へ伝えます。

『柏崎のやつまたです!』

 

ぼくは、何のことかわかりませんでした。
『また』とはどういう意味なのか?

 

ぼくが、配属されてからは、
柏崎さんが無断欠勤することなんてありませんでした。

そして、杉田課長が大森部長に大声で叫びました。

『あいつ、またうつ病再発ですよ!』

 

えっ・・・、

柏崎さんが『うつ病』

ぼくは、そのとき初めて知りました。

・・・・

 

『うつ病』、研究室時代に聞いたあの言葉でした。

・・・・

 

ぼくのうつ病発病まで、あと2年3カ月

※この闘病記に登場する人物の名前は
仮名であり、実在する人物ではありません。

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ぼくがうつ病を発病するまでの話 5

2006年11月 ぼくはある製品設計に関わることになりました

 

このとき、ぼくは通勤手段を電車から自転車に変えていました。

なぜなら、終電の時間までには仕事を
おわらせることができないからです。

出社の時間も早めました。

仕事を効率化するための仕事術関連のビジネス書も
たくさん読み、実践しました。

それでも、終電には間に合わず、
帰る時間だいたい深夜1時くらいでした。
そして、朝は7時には出社します。

 

ここで、少しだけ雑談をさせてください。

ぼくは、この頃は独身で1人暮らしをしていました。
さすがに、深夜1時に帰ってそこから料理をする気には
なれませんので、ぼくの晩御飯はいつもコンビニ弁当でした。

だいたい、その時間にコンビニに行くと、
夜勤の店員さんがいます。そして次の日も朝も
そのコンビニにペットボトルのドリンクを買いに立ち寄るのですが、
昨日の夜勤店員さんと同じ店員さんなんですね。

・・・・

 

要は、その店員さんが働いている時間の内の
わずかな時間しか、ぼくは会社から出られないんです。
家にいる時間なんて、5時間程度だったと思います。

・・・・・

 

ただ、製品設計にたずさわれることもあり、
まだ、やる気はありました。

ただその製品に関しては、既存の製品を改良するだけという
簡単なものでしたので、設計も柏崎さんとぼくの
2人でやることになりました。

杉田課長からは毎日罵声を浴びせられました。

正直とても苦痛でした。

ただ、これも自分が成長するためには、
必要なことだと言い聞かせ、
自分自身を納得させました。

・・・・・

 

幸いその製品の設計は、無事に完了しました。

この頃が、一番仕事が順調に進んでいたと思います。

よい時期でした。

・・・・・

 

ぼくのうつ病発病まであと2年7ヶ月

※この闘病記に登場する人物の名前は
仮名であり、実在する人物ではありません。

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ぼくがうつ病を発病するまでの話 4

2006年10月 ぼくは製品Aの設計課で業務をはじめました。
 

ぼくの課長は、実習中に工場先の方から
散々きびしいと言われた『杉田課長』です。

杉田課長の初見の印象は、
とにかく声の大きくて豪快というものでした。

そして、ぼくの教育係には、入社10年目の
『柏崎さん』がつくことになりました。

しばらくは、柏崎さんと一緒に仕事をして、
指導を受けながら業務を学びます。

柏崎さんは、見た目は怖いですが
しゃべるとやさしく、指導もきちんとしてくれました。
その時の印象は、頼りになる先輩というものでした。

もちろん、そのときは、
柏崎さんの過去のことも知りませんでした

・・・・・

 

最初の1週間は、とくに何事もなく過ぎて行きました。
毎日に8時30分に出社し、17時30分に帰ります。
いわゆる定時勤務です。残業なんてしませんでした。

・・・・・・
 

異変が起きたのは、翌週からです。

ぼくが定時に帰ろうとすると、杉田課長から声がかかりました。
課だけではなく、部内に響きわたるあの大きな声です。

『おい、善吉待て!』

『今日は、まだ帰るな!』

そういうと、ある業務を依頼されました。
内容は細かくは書きませんが、ある資料の手直しです。

 

『やり方は柏崎に聞け!』

指示内容はそれだけです。そして柏崎さんに指導を受け
内容がわかると、その手直しにかかります。

完成させたものを、まず柏崎さんに内容を確認してもらいます。
そしてOKが出れば、杉田課長に見てもらうのです。

 

「杉田課長、お忙しいところすみません、
資料の直し完成しましたので見ていただけますか?」

杉田課長が目を通します。

そこでこういうのです。

『おい柏崎、お前もこい!』

そして、柏崎さんとぼくへの大声での説教が始まります。
説教というよりも、罵声が浴びせられます。

その罵声は、部内全部に響きわたる大きな声でした。
はっきりいって、さらしものです。

 

そして、当然業務をやり直します。

完成したものを杉田課長に、また見せにいきます。

そこで、杉田課長はいうのです

『おい柏崎、お前もこい!』

そして、また罵声が浴びせられます。
この繰り返しでした。

 

結局、その日は終電に乗るために、
仕事を途中で帰ることになりました。

ちなみにぼくの課のみなさんは、
その時間も残って仕事をしていました。

部内でも、その時間になると
他の課は帰っていますが、ぼくの課は全員いました。

みなさん車通勤でしたので、
終電は気にしていないようでした。

・・・・・

 

そして、次の日も終電、その次の日も終電で帰りました。
結局その月は、ほとんど終電で帰ることになりました。

肉体的にも、疲労していましたが、
毎日、大声で怒鳴られることで精神的にも
疲労していたと思います。

ちなみに、このときの残業代ですが、
全額は出ていません。いわゆるサビ残です。

・・・・・

 

工場実習のときに、言われた

『1年目から、杉田さんの下じゃかわいそうだな』
この意味が少しだけ、わかりました。

・・・・・

 

ぼくのうつ病発病まであと2年8ヶ月

※この闘病記に登場する人物の名前は
仮名であり、実在する人物ではありません。

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ぼくがうつ病を発病するまでの話 3

2006年8月 ぼくは製品Aの設計課に配属されました。
 

ぼくの会社では、配属されてすぐは
配属先で業務をせずに、自分達の課で
設計している製品を作る工場に実習に行きます。

ぼくの会社では設計部のある場所と工場のある場所は
全く違う場所でしたので、結局研修後も自分の部署には
いかずに工場へ行くということになりました。

そこで、自分達が設計している製品が
どのように作られているかを実習を通して学ぶのです。

・・・とされていましたが、単純に工場に人手が足りないから
それを解消するために呼ばれただけです。

 

当時、まだ景気もよく、ぼくの会社の製品も作れば
売れるという状況でした。

実際、工場実習の予定は1カ月でしたが、人手不足が
解消するまで、結局2カ月間の実習をすることになりました。

ただ、それだけの期間実習を工場にいれば、
自然と工場の工場の方たちとも仲良くなります。

 

そして、たびたびこんな話をするのです。

『善吉君はどの部署に配属されたの?』

「はい、製品Aのハードウェア設計課です」

『Aのハード設計?、杉田さんのとこだね』

「はい、直属の上司は杉田課長です」

『そうなんだ・・・。1年目から、かわいそうに・・・』

そこから、なぜかわいそうなのかを
聞いても、あの人は厳しいからねとしか
教えてくれませんでした。

・・・・・
 

このような感じの会話が、実習中に
何度も行われました。

少しだけ不安になり、嫌な気持になりました。

・・・・・

 

ただ、厳しさだけなら研究室時代も十分厳しい
環境だったと自負していましたので、
きっと大丈夫だと思っていました。

そして10月、工場実習も終わり、
いよいよ自分の部署で仕事が始まろうとしていました。

・・・・・

 

ぼくのうつ病発病まであと2年9ヶ月

※この闘病記に登場する人物の名前は
仮名であり、実在する人物ではありません。

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ぼくがうつ病を発病するまでの話 2

2006年4月 ぼくは電機メーカーに入社をしました。

第一志望の企業でしたので、たいへんうれしく
希望、情熱、やる気で胸があふれていましました。

入社式では、社長と新入社員全員が1人ずつ
握手していくのですが、その握手がとても力強く
気持ちが高ぶったのを覚えています。

2008年のリーマンショックが起きる前でしたので、
景気も良く企業自体に元気があるときでした。
 

それから、新入社員研修に入るのですが、
ぼくは技術職での入社でしたので、
通常の社会人としての一般知識を学ぶ研修に加え、
技術研修もあり、8月までは新人研修の日々でした。

そして、研修後は配属される部署が発表されます。
ぼくは、回路設計エンジニアを目指していたので
それを実現できる部署の配属を希望していました。

配属前の人事部との面談の際も、
その気持ちを強く伝えました。

・・・・・
 

結果、ぼくはある製品の
ハードウェア設計課に配属されました。

同期でその課に配属されたのは、ぼくだけでした。
同期がいないという、不安も少しありました。

ただ、配属されたのは、ハードウェアの設計課です。
つまり回路の設計ができるんです。

ぼくの希望が叶ったのです。
本当にうれしかったです。

やりたかったことを仕事にできる。夢が叶う。

・・・・・
 

そのときは、何もかもが順調に進んでいると思っていました。

・・・・・
 

ぼくのうつ病発病まであと2年11ヶ月

※この闘病記に登場する人物の名前は
仮名であり、実在する人物ではありません。

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